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シン・ゴジラに見るエヴァとの相違点・共通点・発見点

こんばんは。

先日、例の「シン・ゴジラ」を観てきた。
初めは「エヴァ」の庵野監督が造った話題作ということで、あくまでも一般ピーポー的というか、ミーハー的というかそんなノリで観てきた。
昔のゴジラ(父に言わせると、最初のゴジラは人を食べていたらしいので恐らくは二作目)こそ一度観たことがあったものの、それ以外はゴジラはおろか特撮にすら触れていない有様であった。

だが、結論から言うと、実に面白い。そんな作品であった。特撮を殆ど観ていないという人であってもなかなか楽しめるのではないだろうか。
ただ、既にネットの一部などでも言われている通り「ドキュメンタリー映画」の色が非常に強く、一方で「人間味あふれるドラマ」はごく最低限に抑えてあるという印象も受ける。
後者に映画の面白さを見出している人にはお勧めできないかもしれない(ただし、そのことを批判するためにも一度観ておく、という目的ならばむしろお勧めできる)。


以下の水平線から先はネタバレを多分に含んでいる。まだ視聴していない人はここでのブラウザバックを推奨する。



さて。

ここから先はネタバレが赦されたわけだが、そんな中で言うと、実に「庵野色」が現れた、あるいはむしろ「庵野作品を模した」作品であったように思う。
というのも、なんだかんだで「エヴァンゲリオン」の色を強く感じられたからだ。
尤も、私は庵野作品はまだエヴァを二年前の金曜ロードショーで観て、そこから旧作も見直してといった順序でハマった人間なので、まだ他の作品に手を出せていないというのが実情。それゆえに他の作品の色を見逃しているという可能性も大いにある。
したがって、恐らくは来年ないしは再来年あたりに金曜ロードショーあたりでシン・ゴジラは地上波に君臨するだろうが、
そこまでに別の有名な庵野作品……特に「ふしぎの海のナディア」「彼氏彼女の事情」などを視聴し、そしてエヴァのほかにネットで指摘されていた巨神兵とのつながりを発見するにあたって「巨神兵東京に現る」「風の谷のナウシカ」あたりを再度見直すことが出来ればまた別の視点を発掘できることだろう。
勿論今からでもそれらの作品に手を伸ばし、もう一度劇場に足を運んでみるというのもアリだろうし、むしろ出来ればそうしたいものである。
ガルパンが今なお一部劇場で公開されているように、シン・ゴジラも今年の冬位まで公開されていればよいが……

ともかく、エヴァの色はかなりあったと思う。
具体的に言うなれば、今回のゴジラは「ヤシマ作戦密着取材」とでも言うべきだろうか。
ドキュメンタリー映画の色が強いということは先に述べたとおりであるが、そんな中でも特にヤシマ作戦を彷彿とさせる場面は非常に多かった。
ヤシマ作戦でゲンドウ、ミサト、リツコを初めとするネルフの人々がヤシマ作戦発動に向けて動く中、スポットライトの当たらないその他大多数のメンバーにも多分にスポットライトを当て、その遂行をより綿密に映像化した、という感じだろうか。

勿論一方で、エヴァではない全くオリジナルの、あるいはゴジラ独自と推測される(歴代ゴジラの殆どを観ていないので、あくまで推測である)要素も散見はされるし、何より実は根本的に「エヴァじゃない」と思わせる要素もある。
例えば、全ての人々が足を引っ張ったりすることなく、一つの目的に対して進んでいくということ。
要はシンジが家出したりしてしまったりだとか、冬月が連れ去られたりだとかそういうイベントは無くて、あくまでも全員が一丸となりゴジラ殲滅という一つの目標に向かっているということだ。
またエヴァとは違い、ゴジラが現れた時の対応は非常にてんやわんやとしている。最高権力者の決断力もゲンドウ程ではない上に、後述するが権力の高い人間が真っ先にゴジラによって殺戮されるということもエヴァにはない要素であろう。
民間人も普通に死ぬということも違う点である。もしかしたら使徒戦でも一部民間人は死んでしまっていたのかもしれないが、明確にそれを示唆したかどうかはエヴァとの違う点である。

また何よりエヴァは、エヴァと使徒そのものはほぼただの舞台装置となっていることも多く、実際は登場人物による人間ドラマが重視されている。
使徒及びエヴァは概念としてこそそのドラマに影響は与えるが、その戦闘や、個々の個体及び機体自体はそこまで重視されてはいない。むしろ戦闘に至るまでの、使徒やエヴァの関与しない人間的な過程が重視される。
明確に装置に留まらないといえる使徒は強いて言えばカヲル位だろう。
ところが今回のゴジラはそうした人間ドラマの要素は先述したとおり最低限にまでカットされており、あるのは殆どが戦闘、あるいは戦闘に伴う政治的決断の数々である。
エヴァではそこそこ程度の重視度だった「戦闘」「政治」という要素が、逆にゴジラではよりクローズアップされているのである。
特に政治についてはかなり物議を醸していて、特に原子力関連については今回のゴジラは原発のメタファだとか、最後の台詞はまさに日本の原発事情を皮肉っているとか、そういうコトも言われている。
たしかに庵野監督は3.11に大きな影響を受けたらしく、エヴァQ及びシン・エヴァが遅れているのもこれが原因であるとすら噂されている。原発について何か考えがある可能性も当然あるだろう。
だがこの点については私が不勉強な点も多いので、今回は下手に言及することは避け、あくまで「政治的な面も多い」に留めておきたい。

ともかく、仮に庵野監督がシン・エヴァを作成する上でのいわば「休暇」(この表現が正しいのかは分からないが)としてシン・ゴジラを作ったのだとすれば、それも納得である。
要素こそエヴァに似る点は多々あれど、それは結局過去からの引用に過ぎないのでそこまでの労力にはならない。そして何より、根本的な方向性がエヴァと異なるのであれば、エヴァに必要とする労力やアイデアはそこまで使わなくて済むのだから、エヴァを作る休暇としては充分なものになりうる。

もっとも、こうして違う点がなければこの作品は完全に「ゴジラでエヴァンゲリオンをやっただけの作品」にしかならないので、必然的でもあるのだろうが。


しかしそれでも、私としてはやはり「エヴァっぽい」と思わせる印象は多い。
多いし、その多さ、及びエヴァ自体にハマっているが故にどちらかというと「エヴァっぽさ」を無意識に追い求めて視聴していたのも事実である。
次に観に行くときは「エヴァっぽくなさ」を重点的に探してみようと思っている。

今回のゴジラで「エヴァっぽい」と思わされたのは、何よりもゴジラそのものであろう。

「自立進化する」という要素は紛れもなく使徒そのものであるし、その行動も使徒に準拠したものが多い。

例えば、最序盤の海から現れるゴジラ。
以降、これから進化する順に、第一形態、第二形態……と便宜的に表記するものとする。この当初のゴジラは第一形態である。
そして、これはまさしく「使徒、襲来」におけるサキエルそのものである。
人知を超えた存在、ゴジラは当初全くの正体不明。「巨大不明生物」として扱われ、海から泳いできて、そして人類に対し多大な被害をもたらした。
ここまでもやはりサキエルそのものである。

また、実は物語の途中で分かってくるのだが、ゴジラは作中のキーパーソンの一人「マキ博士」によって起動させられたようだ、ということが明らかになる。
つまり、人類の手によって覚醒させられたという点で、第一使徒アダムにも似通った設定があるように感じられる。

そしてここまでで分かることは、時系列的に言えば第一使徒→第三使徒、の順番で再現が行われたということだ。

突如東京湾に現れ、呑川を逆行。やがて大田区から品川区、品川区から港区へと侵攻を続けるゴジラ。
このシーンは(恐らく関係ないだろうが)モンスターハンターのラオシャンロンを彷彿とさせられた。というのも、怪獣映画でイメージの強い火炎放射などで障害物を焼き払うという描写がなく、自身の物理的なポテンシャルだけで侵攻を続けていたからだ。
途中で立ち止まったかと思うと立ち上がりだしたというのもやはりラオシャンロンのような印象だ。この時ゴジラは、水棲生物としての特徴を多く備えた(これがゆえに、初めは上陸できないと言われていた)第一形態から陸上生物としての特徴を備えた第二形態へと進化を遂げた。
恐らく、こうした侵攻シーンはゴジラを初めとする怪獣特撮においてもよくあることで、ラオシャンロンはこうした絵面からアイデアを得たのかもしれない。
ただ、ゴジラの初登場シーンとして巨大な尻尾がウネウネと動くという描写があるのだが、それはダラ・アマデュラの尻尾の動きを思い出させた。
また、後にゴジラが「死をも克服した」と登場人物たちに考察される点は、不死の心臓を持ち、かつ原因不明の海難事故からその正体を確認されたグラン・ミラオスにもよく似た特徴である。
流石に庵野氏がMHも参考にしてゴジラを作った……とは考えにくいし、むしろ特徴をよく読んでみるとグラン・ミラオス自体が2011年以前のゴジラを参考に作られた可能性も大いにあるのではあるが、実にしっくり来たので特筆しておく。

私はまずこのシーンで「凄まじいな」と思わされた。
最初は物理的に上陸不可能と思われていた巨大生物が上陸し始め、そして人類を蹂躙してゆく。
この時のゴジラは、所謂ポスターなどにもみられる「ゴジラ」ではなくて、むしろ古臭いパチモン臭のするよくわからないトカゲという印象の方が強い。
だが、こういう「怪獣ですよー」という、ベタすぎてパチモン臭のするありきたりな見た目の巨大生物が実際に遠くからドコドコドコドコ、とやってくるのは、その非日常感からしてかえって原始的な恐怖感を上手く煽っていた。今回のゴジラに怖い印象を覚えるなら、まずはこのシーンであろう。
初めにわかった侵攻速度は時速13kmと、幸いにして自転車で全力疾走すれば簡単に振り切れるスピードであると思われた。
ところが品川まで侵攻した後に突如方向転換して一度ゴジラは海へと帰ってゆくのだが、あのスピードはそれまでの侵攻スピードの何倍にも思われた。
ゴジラがその気になれば、自転車はおろか自動車でも逃げ切れることは難しいことを示唆しているのだ。なかなか恐怖感溢れる帰還シーンであったと思う。

そして、この時を初めとする作戦遂行シーン。エヴァ自体が特撮の模倣とすら言われているので当然のことなのかもしれないが、その進行はまさしく「実写版エヴァ」。
目まぐるしいスピードで会話が進んでゆき、そして作戦が遂行される。トップはゲンドウと違って大分優柔不断気味ではあった(ここがエヴァとの相違点の一つである)が、
明らかに「Decisive Battle」をアレンジしたと思われるBGMに加え、画面下に表示される明朝体のテロップも相まってその様子はエヴァの作戦立案および実行シーンであった。

それから暫くしてゴジラは再び上陸したのだが、この時ついにポスターに描かれたゴジラの姿になる。ゴジラ第三形態と言えるだろう。
自衛隊の作戦も精々現代の日本が用意できる火力兵器にも若干の足止め効果があることを示唆するだけ(この示唆が後に重要になった可能性もあるが)に終わった。
その足を止めずいよいよ東京駅周辺にまで侵攻したゴジラに対し、いよいよ在日米軍がその軍事力の一部を叩きこむに至った。
この時米軍はバンカーバスターとも呼ばれる貫通爆弾をゴジラに打ち込んだ。すると、ゴジラはついに悲痛な叫び声を上げる。
それが有効だったことの裏付けとして、自衛隊が総火力をぶつけてもまるで傷一つつかなかったその背中からはついに出血が認められた。

明確な効果がいよいよ出たことにより、一縷の希望を見出した日本政府。
ところが、その時である。
ゴジラの身体に変化が起こった。

ゴジラは背中を徐々に発光させ始めたかと思うと、それまで何も湛えることのなかった口に膨大な量の炎を滾らせ、東京駅周辺に大量の炎をまき散らし、周辺を焼き尽くした。
それだけではない。その炎は徐々に高温になり、ついには超高出力、薄紫色のレーザービームと化した。
ビームはゴジラの前方から後方140度前後を一気に焼き払い、米軍の戦闘機を一機撃墜。
残りの機体も、発光した背中からも放たれ始めたビームによって全て撃墜された。
そのままゴジラは口からも背中からも大量のビームを放ち続け、東京周辺の高層ビル、首相をはじめとする重役の搭乗したヘリなどを悉く焼き尽くした。
そう。ゴジラはゴジラ第四形態へと己を進化させたのである。重火器という自分にとって脅威になる武器からその対処法をビームという形で完成させたのだ。

この時の攻撃は、まさしく第五使徒ラミエルの特徴である。レーザーの色もやはりラミエルのものであった。
更に言えばこのレーザーを吐く時ゴジラは咆哮を上げるのだが、その咆哮は非常に甲高いものであり、歯医者で聞こえてくるドリルの「キュイーン」をちょっと生物チックにした感じの音声のような印象を受けた。
これはゴジラの鳴き声と言われて連想するあの声とはまるでかけ離れたもの。それこそ、「ゴジラの声域でラミエルの真似しました」とも思えるようなものであり、ラミエルを意識したかのような攻撃であった。
今思えば、先の自衛隊の攻撃の無効さもラミエルの堅牢さを象徴したもののように感じられた。

このレーザー攻撃の後、全てのエネルギーを使い果たしたゴジラは一度その活動を終え、その場に立ったまま静止する。
そしてこの後暫く動くことはなく、次なる行動の為にエネルギーを充填し始めていた。

これは、第七使徒イスラフェルに見られた特徴である。
人類からの攻撃を受けたあとに暫く静止して、それからエネルギーを溜めて再び活動を再開する。
ゴジラは作中の展開からしても分裂こそしなかった、というより分裂する展開に運ぶには難しかったのだが、ここだけ見れば確かにイスラフェルのような特徴もわかるだろう(ラミエルも停止していたが、エネルギー充填をしている訳ではなかった点が異なる)。

この時間を活用して人類はゴジラに対する解析及び、作戦立案を行っていく。

そして、ゴジラを使徒たらしめる要素はこの時にも追加された。「神のような存在」として扱われていたという点である。
これもまたエヴァにおける使徒の立ち位置である。
他にも、ゴジラに関して、人間とは対称的な「単体の完全生物」という表現が使われていた。これもやはり使徒の表現の特徴の一つである。

また今作のゴジラにも、理由こそ不明だったが放射性物質を求めて徘徊するという性質があった。
これはアダムを求めて徘徊する使徒のようである。序盤はなぜアダムを求めるのかということは当然人類には理由が分からなかったという点もおなじである。

そして、人類は二つの選択を求められる。
ゴジラに核兵器を使うか、使わないか。

核兵器を使う選択肢は国連によって決定された。
東京は破棄することになるが、少なくともゴジラは確実に殲滅できるだろうという判断である。
これは(少なくとも建前上は)別に遠いアジアの片隅の国である日本という対岸の火事の出来事であったからではなく、ニューヨークであったとしても同様の決断だった。
そして東京に対しては莫大な支援が贈られることも約束されていたという。

そして核兵器を使わない選択肢は、非核三原則を持つ日本の立案したゴジラ凍結作戦。
その名も「ヤシオリ作戦」。

……どうみてもヤシマ作戦の模倣タイトルです。本当にありがとうございました。

いや勿論、これは適当にヤシマ作戦を名前だけ模倣したりしたわけではなく「ヤシオリ」の由来に準拠した作戦名ではある。
ゴジラの体内構造の解析に成功した結果、ゴジラに特殊な凝固剤を飲み込ませることでゴジラの行動をゴジラ諸共凍結させるという作戦が立案されたのである。
一方で「ヤシオリ」というのはヤマタノオロチに飲ませたことでヤマタノオロチの討伐に至った酒の名称が元ネタであり、「何かを飲みこませて対象を倒す」という点に関して一致が見られる。
また、ゴジラをヤマタノオロチと見なしたのは実は何も唐突なことではなくて、最序盤でゴジラがウネウネと尻尾を見せただけのシーンは蛇を思い出させる行動である。

……なのだが、これ程までにゴジラが使徒との共通点を持っているとなれば狙ったようにしか見えなくても無理はないと信じたい。
特に、ラミエルのような特徴を持ったゴジラに対してこれを使うのはもはや「決戦、第三新東京市」ならぬ「決戦、現代日本東京都」である。
先述した「ヤシマ作戦密着取材」というのも単なる比喩のみならず、実際にヤシマ作戦っぽい作戦でドキュメンタリーを作ったという理由からそう記述した。
そもそも、「ヤシオリ」という名前自体、「今作オリジナルのヤシマ作戦」という意味すら邪推出来るなかなかよく出来たネーミングである。

その上、ゴジラを凍結させるにしても別に飲み込ませなくてもよかったのではないだろうか。
例えば、先述のバンカーバスターのようなものがあるなら上手く静脈注射させるとか。
ヤシオリ作戦は幸いにして上手く行ったが、あれはゴジラの行動次第で簡単にオジャンになりかねない。

無人在来線爆弾による特攻、そして転倒まではかなりよくできていた。
まずは無人新幹線爆弾によりゴジラを強制覚醒。無人戦闘機による陽動でゴジラにビームを使わせることで溜まった熱エネルギーを放出させることでゴジラのビーム攻撃の脅威を封じ、そこから無人在来線爆弾を用いてゴジラを転倒させ(恐らくここに自衛隊攻撃による「火力攻撃は足止め程度には有効である」という経験が活きたのかもしれない)
ビルにも無人在来線爆弾を突撃させてビルの瓦礫の下にゴジラを抑え込むという工程だ。ここまではよく出来ている。
よく出来ているし、やはり陽動作戦をとるという点でヤシマ作戦との類似点が見られる。何より陽動に対するゴジラの反応はまさしく新劇場版の第六使徒である。

が、問題はその後。ここで民間で使われるクレーン車を活用してゴジラに凝固剤を注入するのだが、そもそもレーザービームなどが使えなくてもゴジラの怪力であればただ転ばせて高層ビルの大量の瓦礫で覆い被せた程度の足止めなどすぐに解かれてしまってもおかしくないのだ。
ただ今回はそれが功を奏して、一度はそれらのクレーン車をレーザーで焼き払い立ちあがったものの、凝固剤が作用して動きの鈍ったゴジラに再び無人在来線爆弾が特攻、そして別のところに待機していたクレーン車たちが凝固剤を注入。
それでもなおゴジラは立ち上がり反撃を試みるが、その前に凝固剤が完全に作用してゴジラは凍結。
死んだのかどうかは定かではないが、一先ず一切の生命活動を凍結させるに至ったのである(これを「死」とするならば死んだと言える)。

勿論バンカーバスターにしたって瓦礫でゴジラを足止めした以上は上手くゴジラに命中しないかもしれないし、
なまじ命中しても有効な注射が行えるかは未知数という点ではヤシオリ作戦と同様不確実な作戦である。
しかしながらゴジラを凍結させる、という選択肢だけを考えれば別にヤシオリ作戦以外にもあるのではないか、という点で、ヤシオリ作戦はヤシマ作戦の模倣も兼ねている可能性が高い。
実際、作戦立案時もまた「Decisive Battle」っぽいBGMが流れていた。
個人的に思うのは、折角ここまで模倣するなら、凝固剤注入まではいっそ戦闘時バージョンの「Decisive Battle」のアレンジでも良かっただろう。
あの曲は作戦立案時バージョンと作戦実行時バージョンの二種類があり、前者はお馴染み「デーンデーンデーンデーンドンドン」という伴奏を中心にしているのだが、後者はそれに加えてサビが大変に盛り上がり、「The Beast-Ⅱ」および「Sin From Genesis」でも流れたようなBGMが流れるのである。折角なのでその後者をアレンジすればよかったように思う。
勿論作中で使われていたBGMもそれはそれで盛り上がるものだったのである意味結果オーライではあるが。

ともかく、ヤシオリ作戦によってゴジラは倒された。
このゴジラ、追っていくと「第一使徒→第三使徒→第五使徒→第七使徒」の順番でその要素を発現させていったことになる(第七使徒の後の戦闘は第五使徒仕様であったが、発現自体は第七使徒の仕様の前である)。
もっとも第七使徒はゴジラとの決戦がヤシマ作戦の模倣であった可能性を考慮するとちょっと怪しいのだが、それにしても「1→3→5」の順番であるのは間違いない。

それに、仮に第七使徒がヤシオリ作戦時点で模倣されていなかったと仮定しよう。
問題は、私に限らず様々な人が問題にしている最後のシーンである。

「完全凍結したゴジラの尻尾からおびただしい数のヒトの物らしき手足が生え、骸骨の映る尻尾の先端まで映してエンド」というシーン。

実はこのシーン、ゴジラが分裂する可能性を示唆していたのではないかという考察が私がこうしてこの記事を書く前から多数存在しているのだ。

今作のゴジラは自己進化させる特徴があったというのは先にも述べたとおりだが、
これに則れば自分を上回る存在である人類、これに進化しない手はないということで、分裂した後人型、群体としてのゴジラに進化し、人に成り代わってこの地球を支配するのである。
後半でゴジラの尻尾からもレーザーが出てきていたのはこの分裂の伏線であるというのだ。
また、ゴジラはそもそもは人類の核使用を憂うメタファであるという設定がある。
国連の決定で本当に核兵器を用いてしまった場合、ゴジラはその衝撃で爆散、大量のゴジラが各地にまき散らされ人類はジ・エンド、という説である。
仮にそうであれば第七使徒の模倣であると言えよう。第五使徒の戦闘のあとにこの特徴が現れるのだから順番的にもやはり説明は付く。


そして、同時に大量の手足が生えていたという点。
これは、第二使徒リリスの特徴でもある。その身体をよく見てみると体のあちこちからヒトの物らしき手や足が突き出ているのだ。

これはどういうことを意味しているのか。

まず、1,3,5,7という順の次に、2という数が現れた。
「奇数」の後に新たに「偶数」が現れたのである。
であれば。

仮にシン・ゴジラの続編が再び庵野監督の手によって造られるとすれば、次のゴジラは「シャムシエル・ガギエル・サンダルフォン・(もしかしたら)サハクィエル」の模倣を行う可能性が濃厚かもしれないということである。
もちろん続編がなくても、それはそれで「巨大生物の侵攻」というラオシャンロンっぽいと揶揄したシーンを順番は放棄しつつマトリエルのものとして、「進化の最終到着点は死」ということでイロウルまでを模倣とした、つまり奇数のみを模倣したという可能性も無きにしも非ず。最後の手足はエヴァとは全く関係のない別要素であるという解釈も勿論可能であるし、
あるいは、1,2,3,5,7であれば1以外は素数なので、そのまま素数として11,13,17を引用してくる可能性もあるし、もしかしたら次は使徒ではなく巨神兵の模倣だよ、ということなどを示唆しているのかもしれない。

しかし、少なくとも今作において奇数番の使徒の特徴がゴジラに現れ、偶数番目の使徒の特徴がリリス以外は現れていないのは確かである。

このように、今回のゴジラそのものがゴジラのガワを被った使徒に近いようにも私は感じられた。


他にも、ゴジラ以外にもエヴァらしさを感じる風景はあった。
例えば、「緑の溢れる場所に何故かぽつんとあるベンチで二人の男が談合する」というシーンがあるのだが、これも十五話でベンチに座り語らう加持とシンジを思い出させるものであった。
……この程度の描写であれば別にエヴァでなくても存在する筈ではあるが、やけにしっくり来たので一応。

それと、ゴジラ再活動までのシーンにはもう一つ。エヴァらしいというか、日本の在り方の一つに少し踏み込んだところがあったかもしれない。
「すぐに代わりを用意できるのがこの国」という趣旨の発言を主人公(?)がしていたのだが、これはまさしく、綾波レイの言うところの「私が死んでも代わりはいるもの」とよく似ている。
しかも、発言タイミングとしてもヤシオリ作戦実行前ということでそれなりに合っている。

であるとすれば……庵野秀明という人物は、綾波レイに「現代日本人」のメタファを持たせていたという、シン・ゴジラからしてエヴァに対する新たな仮説を立てることが出来てしまうかもしれない。
今思い返してみれば、アスカがレイに対して言った「お前はなんでもゲンドウの言うとおりにする人形である」という趣旨の発言というのもまさに現代日本人のあらわれで、「上司・先輩の言うことは黙って聞いておく」という日本のタテ社会にモノ申していたのではないだろうか?
放送時点で気付いていた人もそこそこいたのかもしれないが、私としてはこれは新たなる発見であった。
更に、レイというキャラクターと特に接触の多かった数名のキャラクターを掘り下げることで、逆にシン・ゴジラに対する何らかの考察が行える可能性もあるだろう。

最後に、もう一つだけ尻尾に関する考察を与えておく。
あの尻尾だが、おびただしい数の手足は分裂しようとしていたゴジラという説明も付くが、もし庵野監督が続編を作る気がないとすれば……こういう説明も出来るかもしれない。

おびただしい数の手足は、作戦時にゴジラにへばりついた人の死骸の痕跡であるか、あるいは確かに分裂の可能性は示唆していたのかもしれない。
そして、最後の骸骨はマキ博士の物である、と。

マキ博士という人物については、そのプロフィールこそ語られたが、その他の情報はあやふやで、結局マキ博士は最後まで表舞台に登場することすらなかった。
であれば、死人に口なし、あるいは、墓場まで持っていくという言葉があるように、
マキ博士は既に死んだので、憶測で語ることは出来てもこれ以上このゴジラについての真実を追求するのは不可能、ということを示唆しているのかもしれない。

何分今作は、エヴァと比較してみて伏線が殆ど回収されていたように感じる。尤もこれについてはエヴァがおかしいだけの可能性も大いにあるのだが。
勿論、伏線にしようと思えばできる要素は幾らでもあるだろう。例えばゴジラは凍結された「だけ」なので、それを再び融点に持っていけば普通に動き出すとか。
それにエヴァで言えばまだ「序」の段階なのだから、破・Q・シンにあたる段階もあっていいだろう、という意見もある。

ただ、そうして後付けの設定を加えてそれを伏線とするのは簡単だが、少なくとも現時点で判明している要素で伏線に出来る要素はそう多くない。
したがって、続編は作れるが、作らないなら作らないで自然である、というなんともうまい落とし込みが出来ている状況にある。

こういう時の庵野監督はどうしたのだろうか。
エヴァの場合はなんだかんだでEOE以降に続編はなかったし、新劇のように明確に複数編があると事前に明言した以外はそこまで続編が出ていることがなかったように思われる(経歴を見る限り)。

とりあえず、新たな発見と同時に、庵野作品や歴代ゴジラをもっと色々観てみることを決意させる作品、それがシン・ゴジラであった。
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