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「年上・年下」のカップリング、及び攻め受けの個人的見解について

こんにちは。

今回はタイトルの通り。具体的には、「おねショタ」「おねロリ」「ショタおね」「ロリおね」のそれぞれに感じる個人的な「特有の」良さというものを、簡単に分類してみたい。

どういうことかというと、例えば単純に「おっぱいが素晴らしい」だとか「クリイキがえっち」だとかそういうことではなく、おねショタならばおねショタの、ショタおねならばショタおねのそれぞれ良さというものがある訳だから、それを書いてみよう、ということである。
さて、まずは一般的に「年上の方が攻め」の方。
「力関係的に上の方が攻めになる」方がより一般的だろうか。

年下の方すなわち受けは一方的に性的に蹂躙されていく己の身体、そして、それに対してなすがままに快感を受け入れさせられ、その快感におぼれゆく自分……という、一種の漠然とした「無力感」にも似たようなものを覚えることだろう。
何もすることが出来ず、ただただエロい目に逢わされ続ける。そして、この状況に一種のカタルシスを覚えるのである。
これが恐らく、「年下受け」の本質の一つではないだろうか……と思う。そしてこれは、おねショタ・おねロリに共通している「良さ」の一つでもあろう。
またもう一つ感じるであろう点は、反応の初々しさである。未知の擽ったさや快感に対する戸惑い、恐怖、そしてあるいは、どこかからか湧き出てくる渇望感、欲求……といった複雑な感情を伴った反応は、間違いなく少なくないエロスを我々に提供している。これもまた、年下受けの一つの魅力であろう。

そこから少し具体化して「おねショタ」に行くと、これは今度は自分が男である以上「共感」出来るエロスが存在する。
例えばずっと年上の可愛い、あるいは美人なお姉さんを見た時に感じる高揚感、そして謎の気恥ずかしさ。
母親とは違うし、そして同世代の女子ともまた異なる体型。匂い。髪。顔。性格。……まったく「未知」の異性。それが幼き男性陣が「お姉さん」に抱いた感想であり、そして魅力でもあろう。
そこからどう動くのかによっておねショタ・ショタおねの分岐点になるような気もするが、ともかく少なからずこの「トキメキ」には覚えがあるはずである。

そしてあの時は思ったはずだ。意識・無意識を問わず「自分はこのお姉さんにはまだまだ敵わないはずだ」ということが。
今私は漸く二十歳になり所謂成人を迎えたわけであるが、成人になってから考えてみて、思い出して、あるいは周囲を見渡してみると、実はそうでもない。
鍛えていれば別だが、そうでない一般的な十四歳程度以上の女性に対してであれば、男女を問わず実は身長や体重などの個人差次第では早くて小学四年生くらいから物理的な力関係で逆転することも出来始める筈である。
特に小学六年生にもなれば、男子でも半分以上、成長の早い女子であれば八割方身体は完成するという。ショタおね/ロリおね展開も、設定次第では一人、多くても二人から三人ほど集まれば臨みやすくなるだろう。
……にも拘らず、我々は抱いたはずである。あきらかな無力感を。
それも実はやむを得ないことで、当時の子供の成長速度というのは成人後に思い直してみるとまさに指数関数もかくやという速さである。
であれば一年や二年差による力の差というのは極めて大きく、ましてやそれ以上ともなればどう間違っても敵わないと考えるのが自然だ。

したがっておねショタは「無力感」「初々しさ」という、そもそもの年下攻めが初めから含んでいる魅力に加えて、
その時のお姉さんに対して幼き男性陣が抱いたであろう特有の不思議な「トキメキ」を想起させ、そして興奮させるという作用、即ち良さがあるのではないかと私は考えている。

一方のおねロリも「無力感」「初々しさ」という点では共通するのだが、生憎私は女ではないので、女児が抱く「お姉さん」に対する印象というのは実際の体験談を耳にすることによる想像に頼るほかない。
したがっておねショタに比べ性的興奮を抱く上でのハードルは高く、相対的に見れば最も食指が動きにくいジャンルになってしまうだろう。特別に百合が好きではない(決して嫌いではないが)というのもあるか。
逆に言えば私が女であるか百合が特別に好きならまた話は変わったのかもしれない。


それでは次に、「年上の方が受け」の方。「力関係的に下の方が攻めになる」方が一般的だろうか。

此方についてはむしろ倒錯感や羞恥心といった、更に具体的で心理的なところにより大きな比重が置かれるだろう。
年下攻めの時点でも「漠然とした無力感」は感じていたかもしれないのだが、これらは全て後に語った初々しさによって複雑になることで形容が難しくなり、むしろその描写は感じさせられている触感に重視されていたことだろう。
ところが年上受けとなると話は変わる。受け手が基本的にそうした複雑な心理に対して一通り分別が付くようになっている以上、その「心情」にも重きをおけるようになるのである。
むろん、感じさせられる擽ったさ、快楽、あるいは痛み、それらに対してもある程度は描写されうるはずだが、そこ以上に重要になると私が考えるのはやはり「心理」になる。

具体的には、例えば背徳感。
大学生くらいの女が、年下の……例えば小学四年生~五ぐらいの女の子数人に、例えば炬燵の中で、潜り込まれることにより性器やクリトリスをパンツ越しに責められたリ足裏を擽られたりしているとしよう。
炬燵の中という閉鎖空間に女児たちは潜り込んでいる以上、下手に暴れることで傷付けてしまう。であればその状況はせいぜい声や手によって止めるしかないわけだが、手の長さ・本数は有限である以上それも満足に行えない。
炬燵から脱出しようにも足はがっちりホールドされて擽られているので、それもまた困難。強引に出られるかもしれないが、先述したようにそこまでやると怪我をさせてしまうかもしれないという、残された自制心。
結果としてその責めを受け入れるしかなくなってしまうのである。そして、そんな「どうしようもない状況」「しかたのない状況」でありながら、その責めに擽ったさで特殊にコーティングされた、今までに恐らくは経験したことのないであろう、しかし確かに淫猥さを含んだ性的快感を覚えている自分……そこから生まれる背徳感という、心理。

むろん、その時に感じている感覚描写もまた我々消費者に提供されるべきではあるのだが、年上受けの時は例えばショタ側が範馬勇次郎の幼少期とかいうトンデモ設定でもない限りそうした心理描写のおかれる要素もまた大きくなるはずなのである。

そしてこの心理こそ、まさに甘美なものである。

というのも、これは「おねロリ」に食指が動かぬ一つの理由でもあるのだが、女体に与えられる性的感覚というのは、物理的・精神的を問わず私が男である以上結局「推定」する事しかできない。
性的快感は勿論のこと、筋肉・脂肪の付き方や性差による神経の構造から、一般的と思われる擽ったさという感覚ですら、実のところ腋や股間に関していえば違いは存在する筈である。であれば、それは自分の経験や体験談、及び経験則からすべてを妄想するしかないのである。
精神性に関しても、女児がお姉さんに抱く心理が分からないことは先ほど述べたとおりだ。

こうなると、ここには具体性、そして確信性が失われてしまう。

ところが、一般的な感覚であればどうだろうか?

擽ったさも腋や股間に関していえば男女の身体的性差によって「やむを得ず」恐らくは異なるものになってはいるが、例えば男女に共通する足裏であればその擽ったさはほぼ同等になるはずである。
精神もそうだ。喜怒哀楽、これに関していえば、「性的な感触」に比較してその差異はけして大きくなく、自分の経験により裏打ちされたリアリティがそこに生まれうる筈だ。

そして、羞恥心や倒錯感、背徳心、といった心理もまた、本来であればけして「性的」な心理に留まらず、様々な場面において存在する。あくまで性的な状況に多用されやすいだけの「ごく一般的な」心理である。
であればそこに性差はなく、したがって想像にもリアリティが生まれる。
そしてそれはリアリティという極上の香辛料を纏い、エロスをより甘美に装飾するのである。

結論としては、心理こそが私が「おね受け」、いやそれに留まらずエロスを生み出す最大の「良さ」のファクターであると考えている。それが故に、私はおね受けが好きだし、お漏らしもまた好きである。

そしてここから個別に「ショタおね」「ロリおね」になるが、これは正直おねショタ・おねロリに共通するのでさほど語ることはない。
早い話が、悪戯心が芽生えればおね受けになるし、無力感を覚えればおね責めになるというだけの話である。

まあこんなところだろうか。

そもそも最初は「ロリおねの対偶はおねショタだから私はおねショタに関してはそこそこ行けるのではないか」と考えたのだが、これに逆・裏・対偶を適用できるとすればショタおねの対偶であるおねロリにもよく食指が動いて然るべきなのだが、いまいちそうならなかったが故に改めて考え直してみた、という所存である。

長々と語ったが、要するにおね受けは良いものだ。後、お漏らしも。……ということを、改めて確認しただけであった。
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